[大モリ]BLOG第7シリーズも,この投稿を含め「N」と「M」の残す
ところまで至りました.
今日は一日で「新聞」記事ばかり引用して,明らかな「手抜き」との
ご批判を覚悟で敢えて今夕刊のコラムを以下に全文を転載します.
考古学と歴史
歴史書を丸ごと信じてはならぬと肝に銘じたのはオーストラリア
研究を始めてからだった。この大陸は何万年も前から先住民の
アボリジニが住んでいたのに、その記述はたかだか数ページ、
あとは200年かそこらかの白人のことという本ばかりで、怒りさえ
覚えたほどである。
歴史を狭く規定すれば文字で書かれたもの、従って支配階級の
書き手に都合良くまとめられており、不都合なものは無視されるか
歪められている。単に書き落とされたものも無数にあるはずだ。
四国の小さな町に住んでいた歴史好きの少年は、自分の祖先や
故郷が日本史の中でどんな役割をはたしたのかと関心を持つの
に、そんな記事は全く見当たらず、苛立たしかった。考古学をやり
始めたのはそんな思いからかもしれない。土の中に確かな証拠が
残されているんじゃないかと。
文字を持たない民族は世界中に存在する。彼らは自らの歴史を
神話や伝承として語り継いできた。われわれはどこから来たのか、
何者なのか、どこへ行くのか、それは生きるために欠かすことの
できない思想なのである。
その語りはしばしば時間を無視し、しかもファンタジーの衣にくる
まれている。しかし、それを事実無根と切り捨てれば何も残らない。
書かれた歴史と神話・伝承の間に大きな断層がある、その間にあ
る混沌とした情報を、時間的に整合し、誤りや偏見を排して、実証
して行くことが考古学の役割だと考えるのである。今の世界では
文化の多様性を受け入れざるを得なくなった。そこで共通するもの
は何か、違いをどう解釈するのかを見極めていくのが正しい歴史
の扱い方ではないだろうか。
以上,考古学者の方の論文です.
「流石!」と言えば失礼にあたるのは「百も承知」でありますが.
自身の学術研究に礎をおく理路整然とした論文には,内容の正否
は別として,目を,心を奪われるモノが感じられます.
さぁ,明日は仕事納め,という方も多いのではないでしょうか?
結局,政局に揺れに揺れた平成24年も,[大モリ]BLOG第7シリー
ズも,いよいよGOALが見えてまいりました,ネ...(^_^;)
0 件のコメント:
コメントを投稿